三陸沿岸の多くの町が甚大な被害を受けたなかで、大船渡市の吉浜地区は、行方不明者1名、流失家屋4軒と被害が軽微だったことから、取材に訪れた新聞記者たちによって「奇跡の集落(ミラクルビレッジ)」と称され、その名を知られることとなった。

しかし、「奇跡の集落」は、決して「奇跡」ではなかった。先人たちの「二度と津波で喪われる命があってはならない」という強い決意が、今の世の吉浜の人々を救うべくして救ったことがわかる。吉浜地区に「吉浜教えの里プロジェクト」副代表の小松則也さんを訪ねた。

甚大な被害をもたらした明治三陸大津波をきっかけに
吉浜の高台への集団移転が始まった

三陸鉄道南リアス線の吉浜駅に降り立ち、出迎えてくださった小松さんの案内でまず、小松さんのご自宅に向かった。道中で、今歩くこの旧道が仙台藩によって整備された気仙浜街道であることを教えていただく。

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吉浜地区を通る「気仙浜街道」

小学校の教師でもある小松さんは、こうした郷土の歴史を語り継ぐ活動に長く携わってこられた。そして東北大震災以後は、この地を襲った3度の大津波の歴史を、そしてそこから学ぶべきことを教え子の子どもたちにはもちろん、この地を訪れる人々に語り続けている。

「あの震災の日、押し寄せる津波を高台から見ながら、吉浜の人々が抱いたのは恐怖よりもむしろ、『ついに来るべきものが来た』という思いだったんですよ」。

東日本大震災以前にも、三陸地方は明治29年(1896)と昭和8年(1933)に大津波に襲われている。吉浜地区も、明治三陸大津波では全87戸のうち35戸の家屋が流され、村外の旅行者を含めて210人もの命が喪われた。村民でいえば、全住民の約20%が犠牲になったという。そこで、当時の新沼武右衛門初代村長が決意したのは、集落の高台移転だった。家だけでなく、道路も墓地も全てを高台に移転させたという。移転先の土地の確保のために、村長は私財も使ったとされる。小松さんは「新沼村長の企画力や実行力、そして村長への村民の絶大な信頼がなければ、集団移転は成し遂げられなかった」と語る。

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小松則也さん。明治の大津波で亡くなった人の「海嘯慰霊碑」の前にて

 明治時代に付け替えた道路より上へ
二度と戻らないよう、沿岸部は一面水田に

しかし、全戸移転はそう簡単ではなかった。「高台に移転してくださいと言われて、全員が『はい、わかりました』となったわけではなく、残っていた家もありました。そこへ昭和8年の昭和三陸大津波が来て、そうした家の住民17人が亡くなったのですが、村民たちは高台への移転の意義をあらためて実感したんでしょうね、その津波をきっかけに、高台への全戸移転を果たしています」。

その時の村長が、第八代の柏崎丑太郎村長。国や県に掛け合って資金援助を獲得し、住宅はもちろん、役場も郵便局も全て、県道の高さ以上に移転させた。「ここより下に家を建てるなという看板は何もないんです。明治の時に付け替えられたこの県道が基準です。標高16メートル、今回の津波もここまでは達していません」と小松さん。

この県道より上に全ての家が移転された

この県道より上に全ての家が移転された

過去の2度にわたる大津波を教訓に高台に住まいを移した地区は他にもあったが、やがて長い年月の間に、日々の便利さを求めて、沿岸部に生活の場を戻していった町がほとんどだ。小松さんも「私だって若い時は、他の町は沿岸の平野部を活用して町づくりを行い賑わっているところもあるのに、吉浜は開けた土地を水田にしてもったいないと思っていました」と笑う。明治の津波から百十余年、昭和の津波からも約八十年、吉浜の人たちが不便であっても高台の暮らしを捨てなかったのは、先人の知恵だったと小松さんは語る。

「柏崎村長は、集落のあった沿岸の平野部を全て水田に開墾しました。昔のことですから、貴重な食糧の米を収穫できる田んぼを潰してまで、家を建てようと思わなかったのでしょう。あとは、みんながやらないことは自分もやらない、という保守的な土地柄だったことも功を奏しました」。

大津波の教訓を後世に伝えるため、
碑を建立し、石に津波の威力を刻んだ先人たち

吉浜を見下ろす高台に建立されている「津波記念碑」。大災害があったという記録のためではなく、人は時間が経てば忘れるものだ、という戒めから建てられたものだと小松さんが教えてくださった。そこには「大地震のあとには津波が来る」「俄に潮が引いたら警鐘を打て」「警鐘を聞いたら避難せよ」「三、四十年を経て津波が来ると思え」と刻まれている。

「津波記念碑」の建つ高台から浜を望む。かつて集落のあった平野部は水田に

「津波記念碑」の建つ高台から浜を望む。かつて集落のあった平野部は水田に

興味深い石に案内いただいた。通称「津波石」だ。昭和8年3月3日の津波で、沖合200m先から運ばれ打ち上げられたもので、重量八千貫(約30t)と石に刻まれている。縦3.7m、横3.1m、高さが2.1mもある巨石がこうして流されるほど、津波の威力がすごいことを後世に伝えようとしたのだろうが、昭和30年代の漁港や道路整備の際に、土中深く埋められてしまっていた。今回の震災で、堤防や道路が壊され、その姿の一部を再び現すことになったのは何という因果なのだろうか。もちろん、丁寧に掘り出された「津波石」は今度こそ大切に保存されることが決まっている。

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東北大震災の大津波で姿を現した「津波石」

こうした碑を巡っていると、遠い昔に生きた先人たちの、何十年後かの会うこともない同郷の子孫たちへの強い愛情のようなものが感じられて胸が熱くなった。

「吉浜は田舎で不便なところだけれど、本当にいい地域だなと思うわけですよ」と小松さんが誇らしげに語っていたのが心に残る。

浜の高台移転の経緯や津波石のことは、小松さんら「吉浜教えの里プロジェクト」の手によって『吉浜のつなみ石』にまとめられている。教訓を世界に伝えたいと英文表記

吉浜教えの里プロジェクト

連絡先
☎0192-45-2337
http://yoshihama-oshienosato.jimdo.com/

※みんなの震災学習テキスト『吉浜のつなみ石』のご購入を希望される方は、
上記までご連絡ください。

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